2013年10月31日木曜日

エチケット



エチケットのことを挨拶の仕方、テーブルマナーのことだと思い込んでいる人がいますが、エチケットはそれだけではありません。エチケットとはライフスキルの集合体、つまり生きる力なのです。

とっても重要なことですが、エチケットは人間関係を円滑にするために欠かせません。つまり人間関係を円滑にする力とは生きる力なのです。生きる力とは、自分がしてもらったらうれしいことを相手にすることであり、それこそが礼儀作法であり、生きる力なのです。

もう、お分かりですね。実社会で成功する最大のポイントは、エチケットを守れるかどうかにかかっているのです。一流の人は傲慢だと思っていませんか。実は三流の人が傲慢で、出会った人を粗末にします。
二流の人はエチケットが大切だと心から思うことなく、出会った人を大切にできない人です。
一流の人はエチケットこそ人間関係の潤滑油と考え、出会った人を大切にする人です。
エチケットは個人及び組織の収益性を支配しているのです。

私たちの生きる社会は日に日に進化していて、併せて進化の分だけリスクも大きくなっています。言い換えると繁栄を手に入れるのも、堕ちて行くのも早いということです。つまりエチケットの遵守が無関係な世界にいるとしたら、すでに疎外された世界に入り込んでいることを実感してください。

自分に自信のない人はエチケットを大事にする世界から遠ざかろうとします。
逆に自信のある人はエチケットを大事にする世界に飛び込んでいきます。言い換えると限られた人間関係の世界に居場所を求めるか、限りなく広がる世界に居場所を求めるか、エチケットを気にしない生き方を好んでいるか、エチケットを気にしない生き方を好んでいるか、それであなたの将来、あなたが属する組織の将来が、すでに起こった未来として捉えることができるのです。


スランプに陥ればフォームを最適にするために練習を重ねます。
 エチケットとは、あなたの生きる構え(フォーム)つまり<人間関係の仕方>なのです。


2013年10月23日水曜日

ものさし


常識と非常識。この使い分けは簡単そうで難しいものです。

他人や環境に迷惑をかける非常識な行いは慎まなければ社会生活を混乱させます。しかしそれさえなければ、自由であるために、非常識であってもいいのではないでしょうか。多くの人々が脈々と築き上げて来た常識がどうでもいいわけではありません。常識をベースにして自由に非常識に生きてもいいのです。

と、言うのは簡単ですが、そのせめぎ合いで、一番大変なのは本人自身なのです。

常識と非常識がぶつかり合うものすごい摩擦から生じる熱をエネルギーにするしかなく、それを持って全知全能を使ってものさしにする。つまり、他人のものさし、価値観に頼らず、自分の心をものさしにするのです。

さて、ここで重要なのは、正しいと信じることを行うことです。自分では正しいと思っていても一般的には間違っているという場合もあります。さて、このような場合、どうすればいいのでしょう?


良識です。
有益なこと、そうでなく有害なことを選別する道徳を尊重した基準です。良識は絶え間ないトレーニングによって身についていきます。つまり実践によって身についていきます。良識は知識ではありません。

良識は体験から身につくもので「心眼」ということもできます。良い選択をすることで育まれますが、良い選択は、数多くの結果と原因を学ぶ事でできるようになります。そこには共通したことが見え隠れします。これが良い選択をする虎の巻になります。人生は選択と行動の総和に他なりません。間違っていない選択をして必要な行動をしていけば人生は悪いものになりようがないのです。

100人いて、100人が異論を唱えても、自分の意見を信じるには、自分の日常がいい加減にやり過ごしたものでは役に立ちません。日頃から真摯に向かい合って実践していてこそ、良識は使い物になります。良心と良識を使いこなせてこそ、そこに自由があり、本当の自分の人生があると言えます。



2013年10月16日水曜日

働きがいのある組織が収益を向上する理由


「企業は人なり」とずっと言い伝えられてきました。その意味は人が企業そのものだという意味です。しかし、それを本当に実践してきた企業はどれほどあるでしょう。無関心ではなくとも、実際に十分な手を打って来たかというと大いに疑問です。特に最近では正社員が減るに伴って「企業は人なり」という言葉自体を聞く機会も激減しました。

実態は顕著です。人が育って来ない会社には際立った特長があります。自社でしか通用しない人的ネットワークとスキルばかりを身につけることに明け暮れて他社でも通用する人材育成をしていないのです。それは自社の将来を担う人材を育んでいないことに通じます。

それは「信頼関係」が構築できない原因になります。あるいは歪んだ信頼関係を創ってしまう危険があります。物事や状態を俯瞰できない人の集団になる可能性が潜んでいて、将来の可能性を自ら閉じてしまう可能性すらあります。

信頼関係が構築できない場合には、会社の都合で物事を運んでも良いという判断が日常化してしまいます。歪んだ信頼関係を創ってしまう場合にあっては、俯瞰できない管理者の個人的な判断で物事を進めていくことを疑問視しない傾向があります。理不尽を理不尽と気づいていないので、辞めるのは異常だとしか考えない。いわゆるブラック企業と呼ばれるのは組織にはこのパターンが多い。

ブラック企業の経営者は自社をブラック企業と思っていないものです。フロー状態を期待しているだけだとしても信頼関係がなければ共有することができないので理想だけが暴走することになります。

それを増長させているのは、我慢して理不尽に耐えても辞めない方が良いという従業員の判断があります。このような状況でモチベーションが得られたのはどういう人種か、なにより優秀な人材とはどのような人材かを明確にせずにしていると組織は望む形にならないばかりか、望む形とは相容れない組織を創ってしまう危険があります。

優秀な人材とは、組織に貢献する人です。では貢献とはどういうことなのでしょう。貢献とは、利益さえあげればいいのでしょうか、トップの望むことが自在にできる組織作りに寄与することなのでしょうか。これだけでも随分違います。信頼関係の基盤は、どうあれば組織に貢献しているのかを共有(シェア)していることです。共有(=シェア)の解釈にも注意が必要です。

成果主義が破綻した会社は少なくありません。誤った運用をしたからです。目標達成を個人の責任にした結果主義を成果主義と呼んだケースが多発しました。あるいは成果主義を避けた会社も多い。それも誤った選択です。

成果主義とは、プロセス重視であり、プロセス通りに行えば、予め約束した結果を出せることが重要であり、それこそが共有の要である。仕事の仕方を個人任せにして、実態はやってみなければ分からないという曖昧のまま、望む結果だけを押しつけ、達成できない場合は達成率で測るというのは単なる「放任」でしかなく、そこには共有の土壌すらありません。

自律できるから任せられる。自律できないから任せられない。任せられないのに任せたら放任です。 優れたベンチャーが過酷な状況で働いていても嬉々としてフロー状態でいるのは自律しているからです。難しいテーマのようでも、どうすれば楽しい職場になるかははっきりしています。

プロセス通りに行えば、予め約束した結果を出せるスキルが必要になり、それを共有できることが個の尊重に発展していきます。フロー状態への支援であり、学びであり、言われるままに動く状態からの脱皮であるからです。これこそが自律型マネジメントの核心部分です。

どうすれば継続的なフロー状態を実現する場を提供してやれるか、これこれが働きがいのある組織のメインテーマです。フロー状態を具現化するには、自分がどうしたいのか、目標を持ちどうすれば自分の仕事がうまくいって達成できるのか、知っていて実行できる環境が提供されるからです。この仕組みの提供がよりよい社会作りに提供されることになります。

自律は尊重されていると感じる重要な要因です。自律できるから働きがいが生まれ楽しくなり嬉々として帰属意識が生まれ組織に貢献しょうとするエネルギーが湧いてきます。

裏返すと共有のないところに個の尊重があるわけもなく帰属意識が高まることもありません。希薄な帰属意識のもとで組織に貢献しょうとするエネルギーは生まれません。

共有には約束した結果を出せるように真の従業員満足とは、働きやすさ×働きがいのマトリクスで描けます。

2013年8月12日月曜日

LESS IS MORE





シンプルであることは、安心をもたらします。

それは優れた商品、たとえばアップル社が世界に投げ込んだいくつかの商品を見たら分かります。
筐体は不必要を大胆にカットして、美しく、マニュアルはほとんど不要ですぐに使えます。これは使用者が目的を達成する上でとても重要なことで、生産性向上に寄与します。 

自分の期待の実現が叶うかどうかは、行動の結果でしかありません。 結果は行動で変わりますが、次の5つの実行が必要です。

1.自分の最も大事なことを目的にする
2.目的の達成に直結するスキルがなにかをピックアップする
3.目的の達成に直結するスキルは身につける
4.目的が達成できることに直結することに専念している環境を作る
5.目的が達成できることに直結することだけをする

 つまり生活の質を高めるとは可能な限りシンプルにすることです。生活から余計なものを省くことはストレスを減らし、効率をあげ、結果的にゆとりをもたらします。

2013年7月24日水曜日

楽観主義で行こう


楽観主義の中心にあるのは、PDCAと粘り強さだ。
PDCAは人間が考えついた最も素晴らしいことのひとつだ。PDCAはあらゆる挫折、失敗を粘りで黄金に変える。

潜在能力を引き出し成長を信じるのが楽観主義だ。

悲観主義の人はPDCAを使わない代わりに問題を放置する。それは黄金をドブに捨てるに等しいので、他人や世の中にせいにする。

自分自身で能力の限界を設けて、見殺しにするのが悲観主義だ。

楽観主義の誠実さと慎ましさ、悲観主義の放蕩。難しい話ではない。どちらが好きかという問題だ。

「これしかない」と信じて疑わない場合には、楽観主義で行こう。


集中力は未来を切り開く力




集中力とは未来を切り開く時間
集中力のコントロールは未来に向かう時間管理だとも言えます。

目標達成に向かう限られた時間に自分のすべてを投入することです。そのためにはそれ以外のことをどれだけ遮断できることが決め手になります。

時間を有効に使うとは目標に集中することです。

「ながら族」だらけの現代は集中力からどんどん遠のいているように見えます。「ながら」とは目標を複数持つことです。言い換えると緊張を必要としない目標です。慣れ親しんだ過去を生きているとも言えます。その姿に感銘も共感もないでしょう。

集中力に磨きがかかる毎日でありたいものです。



2013年7月20日土曜日

幸福な人生、幸福な成功のために、幸福な仕事の生き方




■Beプログラム

私は企業に、年度の方針として「Be ○○○○」を提案する場合が増えています。Beとは,
ビートルズの名曲「LET IT BE」のBEであり、ハムレットのBEです。(「To be or not to be, that is the question」にはいろんな解釈がありますが、それはbeをdoのように解釈しているために生じた混乱だと思っています。) 

○○○○の箇所 には社名が入ります。”会社”になるとは、その企業に属する人たち、ひとりひとりが会社のポリシーを体現する人になるということで、裏返せばポリシーを浸透させるということです。

そのポリシーは会社に関わるすべての人々を幸福にするというものです。その提案は快く受け入れられて進行していますが、背景には「幸福生産性最大化」というコンセプトがあります。

誤解されないように付け加えますが、成長が困難な右肩上がりでない時代には、ポストも給与も増やすことは、決して簡単ではありません。その代替としてそれ以外の要因の必要と決断が余儀なくされていますが、だから他の要因で我慢しろというのではペテンであり、真の幸福生産性最大化にはなりません。それでは経済的な生産性の向上は望めないのです。

自分が働く会社が社会的な役割を担い、共感した従業員ひとりひとりが自分の役割を受け入れて行動しているとしたら、どんなに素敵でしょうか。
経営者が企業の存在意義を深く理解し、深い理解から生まれた理念と方針に、賛同した者が集まり、それぞれ自分にふさわしい役割を認識、つまり従業員、株主、顧客、関係業者としてチームワークで経済活動を行うことが、関わるすべての人の幸福度を高めるのです。
もし利益の追求のためだけに会社があり、参加した者もそれ以上のものを持たず期待もしない場合には、破壊だけが進む危険があります。


■幸福とは?

「幸福生産性」と掲げる以上、なにより幸福の定義が問題になります。しかし幸福は主観的なもので普遍的に定義づけることは不可能です。100人いれば100通りの、1000人いれば1000の幸福があります。取り組みにあたりヒヤリングをしましたが案の定、幸福のイメージはとらえようがありませんでした。

「幸福生産性」の具体的な展開について、研究すればするほど、ブータンのGNHに行き着きます。GNHは日本や先進諸国のポストGDPですが、昨年皇太子ご夫妻が新婚旅行の際、訪日されたことでブータンとGNHは一気に広く認識されるようになりました。

そもそも、私が「幸福生産性」を考えた段階ではブータンのことも、GNHのことも、荒川区のGAHのことも知りませんでした。私にあったのは、<DO>よりも<BE>の必要性…………つまり、何をするかより、何者になるかの重要性だけでした。なぜなら幸福な人にしか幸福は生み出せないないからです。

幸福を定義づけできないのに、「幸福な人にしか幸福は生み出せない」というのは奇妙なな話だと思われるかも知れませんが、幸福な人とは、欲しいもの、つまりある形を手に入れた人ではなく、手に入れたものを欲しいと思える人なのです。何をしたから、何を持ったから、つまり形ではなく、人の在り方なのです。それが<DO>よりも<BE>が重要だという由縁です。


■幸福な人の在り方

人の在り方について簡単に触れてみましょう。
人生とは選択の集積地ですから、選択のたびに、本当の自分に焦点を合わせて選択することを続けた後に、自分の人生の完成をみます。
もし、他者あるいは借り物の価値観で選択を重ねたら、自分の人生はどこにも見つけることはできなくなります。このような人の場合、 どのようなものを手にしていたとしても 賽の河原をウロウロしたような頼りなさだけが残り、自分の在り方が否定される気分に陥るでしょう。

自分を発見する人の旅は、本当の自分に焦点を合わせた上で、あらゆる機会に於いて選択を重ねた後に、表面よりはるかに深いところに、余分なものを全部投げ捨てたときに、真実の自分を発見して、ついに発見の旅は終焉を迎えます。その時、静かですが、ものすごく熱く、決して揺るがない勇気を感じます。それを気づきと言う人もいますが、気づきはプロセスで起こることで、終焉では統合と言う表現がぴったりするでしょう。バラバラだった自分がいつの間にか全部ひとつにつながった感じです。 大きな感動はなく狐につままれたような不思議な感覚に陥るでしょう。

繰り返しますが、幸福な人とは、欲しいものを手に入れた人ではなく、手に入れたものを欲しいと思える人なのです。それを実感して、自分の価値観にできたとき、間違いなく、真実の自分に出会えます。そして幸福な人になります。その瞬間、たとえばあなたは自分がとっても素敵な人間であったことを実感して、肯定も否定もなくただ自分がいるだけだと気がついて 自己否定感の過ちから解放されます。


■『マディソン郡の橋』

幸福な人とは、欲しいものを手に入れた人ではなく、手に入れたものを欲しいと思える人です。その良い見本が映画、文学の世界に発見することができます。世界的なベストセラーであり、その後もロングセラーとなり、クリント・イーストウッド制作、監督、主演によって映画化されたロバート・ジェームズ・ウォラー原作の『マディソン郡の橋』です。

表面的には不倫をテーマにしたラブストーリーですが、世界中で共感を生んだのは、たった4日間の出来事に人生のすべてを喜んで捧げたその在り方にあります。この映画はまず女性の死後、遺言を読んだ遺児たちの否定的な感情から始まり、最後には肯定的な感情にたどり着き、母親の遺言を全うすることで、残された遺児の共感と祝福を受けてロマンスの完結を見ます。

女性が誰も傷つけたくないがゆえに、生涯秘密にしたことを、死後に告白せずにはいられないのは、母親として責任を全うした死後でしか告白の機会も願望の叶わう機会もない切迫からです。そして皮肉にも、もっとも傷つけたくなかった遺児の協力なしに願望の叶わない地団駄が切なすぎるのです。その地団駄が共感され、理解されることで、母親という役割を終えると共に超えて、フランチェスカという個人として尊重され永遠の想いは安堵するのです。

偶然、手に入れた4日間の出来事を大切に守るために、家族全員に対する責任を果たし抜いた女性の母親としての在り方と、母親を大切にして、再会を求めることもなく慕い続けた相手の男性、二人の長くて短い人生で何度も問われ続けたであろう「選択の在り方」への畏敬の念が核心です。 まさしくこの作品は、人生あるいは人の在り方と同じく、その表面よりはるかに深いところに、余分なものを全部投げ捨てたときに、真実の自分を発見できるようになっています。

希望のない幸福はないと思いますが、ここでは自らの選択で希望さえも放棄したものを欲し続けた人間の在り方が胸を打ち続けます。簡単に言えばキャンディの入っていないキャンディの箱をダイヤモンドのように後生大事にして、全人生を捧げることができるというかという問いかけなのです。つまり異性への感情に限らず、幸福とは在り方のなかにしか存在しないということなのです。在り方は選択によって決まり、選択は在り方によって決まっているという事実です。幸福な人にしか幸福は生み出せないというわけで、幸福な人にしか幸福な結婚はできず、幸福な仕事もできないのです。

 俗な目線で見れば『マディソン郡の橋』は、とてもネガティブであり、狂気と受け取られるかも知れませんが、幸福とはなにかについて 論議してみればするほど分かるように、幸福とは人の主観でしかないのです。
『マディソン郡の橋』で何より重要なことは、その選択が自分の価値観そのものである点と責任を引き受けてアサーティブ(積極的自己主張)に生きる点なのです。そしてこの作品のメッセージに魂で共感できる人こそ、幸福とはなにかを定義できる幸福な人ではないかと思うのです。

幸福生産性

『マディソン郡の橋』をヒントに、仕事を考えてみましょう。
最初に自分が働く会社が社会的な役割を担い、共感した従業員ひとりひとりが自分の役割を受け入れて行動しているとしたら、素敵だといいましたが、では共感もなく働きがいを感じていなかった人はどうなるのでしょう。

マディソン郡の物語が偶然の出会いから始まったように、私たちもその職についたのは、お金のためで偶然だったということは少なくありません。しかし、どんな仕事にも意味を見出すことはできます。意味を見出せるのは自分の在り方だからです。働きがいもやりがいもない職場でも、自分の在り方で見つけることができる。未だ在り方が定まっていない人に、在り方を見出せるように巻き込むのがリーダーシップなのです。

「Be ○○○○(社名)」とは「選択の在り方」が会社のポリシーに従うということです。従って会社のポリシーが幸福から逸脱したものでは、幸福生産性は漫画になってしまいます。しかし実際には漫画にもならない会社と人たちが溢れています。理念はあっても、どこにそんな風が吹いているのかも分からない会社、風が吹いていてもキャッチできないマネジャー、まったく気にもかけない従業員・・・・実際にはこんな現象が大多数なのです。追い討ちをかけるように、働きがいと幸福の関係は、それぞれが独立した重要なテーマになることはあっても、関係性が問題にされることは稀です。

しかし、働きがいのある職場で働けることは幸福なことです。にもかかわらず概して企業が働きがいに熱心でないのはどうしてでしょうか?だからこそ「幸福生産性」をアプローチする価値があると考えられます。あなたの職場に意欲がないなら、あなたが行動を変えることで、意欲的な職場に変えることはできます。あなたがリーダーシップを内包していればリーダーシップが機能するのです。「人の在り方」つまり「人間力」とはそういうことです。

働きがいは気分ではありません。働き方がアルバイトでも、自営業でも、会社勤めでも、生産性にダイレクトに影響する精神衛生上、重要な要因です。感情は取引する双方に重要な影響を与えます。

私が人時生産性(ひとり一時間当たりの生産性)を提唱したのは、およそ30年前で、非常勤雇用の重要さを説いたときも、容易に受け入れられませんでした。しかし、じわじわと広まり、一般化した暁には、重要な視点が欠けているように思い、限界を感じていたのです。私が人時生産性、非常勤雇用の重要性をアプローチしたのはコスト削減だけが目的ではなかったのですが、コスト面ばかりが強調される結果になっていったことへの違和感があったのです。私がアプローチした背景には、先に言ったように企業理念と方針に賛同した者がそれぞれ自分にふさわしい役割で参加して経済活動を行い、関わるすべての人が幸福になるという目的がありました。

私には幸福な人にしか幸福は生み出せない確信があり、働いている人が幸福な会社こそ、得意先、仕入れ先、地域社会など関わる人々も巻き込んで幸福になるという期待があります。そのために自分がどんな在り方の人になるのか、という明確な目的を持ち、それが達成できたとき、共感によって生産性は飛躍的にアップする考えています。それが「幸福生産性」の内なる核です。

幸いにも「幸福生産性」を掲げた直後に大好きな福井県が幸福満足度全国ナンバー1になったと報道されたのを契機にそれぞれの
点は一気につながり、線となって私の心を捉えイメージはさらに明確になりました。

■ポストGDP 幸福満足度への取り組み

GDPとはGross Domestic Productの略で国内総生産のことです。GDPは通常一年間という一定の期間内に新たに生産された財やサービスのの付加価値金額の総計です。GDPが伸び続けると私たちの暮らしは良くなり、満足度は高くなるのが通説ですが、世界に類を見ない奇跡的な復活を遂げたにも関わらず、幸福感については、戦後から大して変化していません。この事実は日本のみならず世界的にも驚きで、GDPという尺度つまりお金が人を幸福にする要因にならないことを突きつけた形になっています。

一方、ブータンのGNHは、Gross National Happinessを省略したもので、翻訳すると国民総幸福量を意味します。GNHはブータンの風土と人の関係性から生まれる智慧を生かした国づくり、方向性なのです。 GNHは政府が国民を幸福にすることを約束したものではありませんが、 GNHによって、<Be>………どのような政府になるべきかを明確にしているのです。その結果、97%の人が幸福であると満足しているのです。 ブータンの人々にとってGNHは哲学なのです。

GNHに似たものは他の国にも見つけることはできます。
カナダのwell‐being指標もそうです。well‐beingも幸福な状態を意味します。
オーストラリアでも同じことが展開されています。

日本でも真の豊かさ、幸福な暮らしをテーマに生活の質を高める試みが行われている東京都荒川区のGHA政策(荒川区民総幸福度)があります。区民の幸福度を向上させることが区政の役割とポジションしています。都心部での貴重な試みです。

さらに幸福満足度全国ナンバー1になった福井県では、東大と提携したLHI(ふるさと希望指数)研究プロジェクトが行われています。LHIでは5分野20要素を統計指標に設定しています。

これらのどれにも共通しているのはなにより家族や地域との親しい関係性です。企業でいえば社内にあっては上司と部下の関係、社外にあっては顧客、地域社会との関係といった見えない資産に原価意識を持ち、連帯感、尊厳、信頼、誇りを持って働ける仕組みがあれば幸福な会社に近づけるのです。マーケティングでよく話題に上る「顧客生涯価値(Customer Lifetime Value)」も本来はその典型的な事例なのです。「顧客生涯価値」の観点からも、ブータン政府のGNH、福井県のLHI、荒川区のGHA等に於ける行政側の態度は正しいと思えるのです。私たちひとりひとりにとって重要なのは、それが家族、会社にも応用できるということです。そしてなにより、手にしたものを欲しいと思える人になるために、社会人になることです。「幸福生産性最大化」も、より精度アップするために、もともとのベースとミックスして活用していきたいと考え実行しています。


■社会人

「社会人になる。」誰もが耳にして、口にしていると思います。
社会人とは何でしょうか?働く人のことでしょうか?高校生のアルバイターは社会人ですか?アルバイトは働き方です。高校生は学生です。社会的な生き者でないわけではありません。社会人と言わないのは彼らがまだまだ社会人になるために学んでいる人たちだからです。それが分かっていないから、勘違いしたモンスターペアレントが出てきます。学校は企業人を育てる場所ではなく、社会人を育てる場所なのです。しかし社会とお金儲け、あるいは自己実現の場と混同されたらどうなりますか?

社会とは、個人と国家(政府)の間にあるものがそうです。日本では個人がすることか、政府がすることに大別されていて、そこからはみだしたことは見てみぬふりをされます。地域のつながりがなくなったと言われるのは、暮らし方の問題ではなく、人間の在り方が変わり社会人がどんどん減少したからです。どんどん減少したのは、社会が曖昧になったからです。敗戦から復興のプロセスで、政府が頑張ってくれたので、社会人のすることを政府に預けて、経済活動に専念できたのです。それがうまく機能しましたが、同時に弊害も多く生じたのです。

しかし、世界も驚く急激な復興~成長は、少し乱暴すぎたようで、生産性をあげるために、幸福の代替もので幸福だと考える知恵は、どんどん進化しましたが、 余りにも長い間、気にしなかったせいか、 引換に幸福になる知恵を忘れたようです。復興のプロセスで内包した弊害も噴出し始めました。実は、幸福になる知恵や技術の集積場所が社会であり、そこで機能するように社会人になる必要があったのです。

人はみんな社会には、さまざまな形で参加しています。基本的なポジションは社会人としてみんな一緒です。経済活動も社会人としての参加の在り方です。経済活動をしない社会人もいます。会社の社長も、詩人も社会人です。この点は十分認識されていると思います。しかし実際には、役割に閉じこもって、役割以外の活動をしなくていいと錯覚した社会人があふれています。ボランティアの人たちがしていることは、社会人みんなでシェアすることであり、たまたま誰かに頼まれたからという理由でもなく、自ら率先して手をあげただけのことです。ほとんどはみんながすることである場合が多いのです。

道で人が倒れていたら助けるのは 会社の仕事ではなくても、社会人としての仕事です。電車で身体の具合の悪い方が立っていたら席を譲ってあげるのは、 会社のお得意様でなくても、社会人として仲間をいたわることです。何のためにでしょう?「社会」とは何か、「社会人とは何か?」その答えはそこにあります。年金の問題でも片付かないのは、社会人の理念や役割、政府の役割が曖昧だからではないでしょうか?

私たちはひとりひとりが連帯した社会人なのです。幸福な生き方をする上で、そこが出発点だと認識しておいてください。社会人になることを抜きにして、手にしたものを欲しいと思える人にはなれないのです。
幸福な成功を手に入れるには、次の点を整理しておきましょう。

・社会とはなにか?
・社会人とは何か? 
・幸福とはなにか?
・幸福な人とはどのような人か?
・自分にとっての幸福な成功とは?
・大から小まで、自分の選択の基準は?



2013年7月19日金曜日

ビズ・アサーティブと幸福生産性


お互いの妥協点を探るというと「我慢」のイメージがちらつき消極的な印象を受けます。
お互いの違いを否定せずに、ただ受容するだけでは、ノン・アサーティブ(非自己主張的)あるいはアグレッシブ(攻撃的)になる可能性があります。自分を大事にするように、同じように相手も大事にする。共感力があってこそ接点をアサーティブに見出すことができます。

アサーティブとは、積極的に自己主張することです。「積極的に自己主張」というと誤解される方もいますが、攻撃的に自己主張することではありません。

他者に対して、自分の考え、意見、感情を抑圧して遠慮がちになるのがノン・アサーティブ(非自己主張的)。
他者に対して、自分の考え、意見、感情を押し付けて支配的になるのがアグレッシブ(攻撃的)です。

つまりアサーティブとは、自分の考え、意見、感情を「率直、誠実、対等、自己責任」で表現するものです。

ノン・アサーティブ、アグレッシブには、アサーティブの柱である「率直、誠実、対等、自己責任」が不足しています。不足する理由は、人によって仕組みが違いますが、意識すること、さらに仕組みを知り変えるこで不足をなくすことはできます。

マートワンが提唱する「ビズ・アサーティブ」とは、これをビジネスの現場に落とし込むことですが、ノン・アサーティブ、アグレッシブな人が多いので、決して簡単ではありません。

しかし社内、社外、さらに従業員個人個人の意識がWINーWINに変わり、そのプロセスを通じて「幸福生産性」という概念が生まれます。



2013年6月27日木曜日

ビジョンでフレームを壊す。



ビジョン、あるいは夢。生命の泉から自然に湧き出るエネルギー、つまりあなたそのものの噴出の邪魔をしているのが、他ならないあなたが他者から受け取ったゴミから生じた人生脚本、つまりあなたのフレームなのです。

あなたはこのフレーム(生きる構え)を使っている限り、 生命の泉から自然に湧き出るエネルギーを使えないので、自分の人生のある場所で暮らしていくことができないのです。

でも、決して悲観しないでください。ほとんどの人がそうだからです。だからといって安心に踏みとどまらず、自分を自由に動かせてあげてください。多少危険があったとしても、あなたの中にある知恵と勇気を使ってあげることで、一歩一歩進んでいくことができるからです。

人生は旅と似ていて、行き慣れた土地には安心があり、知らないところは安全かどうか分からないので、知らない場所に行くのは怖いものです。でも驚きは大きな喜びです。すでに知っていること、体験済みのことに、人は驚くことができません。驚きのない暮らしはいつの間にか自分からみずみずしい感性を奪って行きます。

ツアーで海外旅行に行ったとしたら、みんな同じホテルで同じ高級料理を食べる。ホテルの施設で過ごし観光バスで周遊して同じ場所で過ごし、お土産を買う。ガイドブックに書かれていること確認するようなツアーのような人生を過ごして、本当に楽しいはずがないのです。

不安を恐れるのは失敗をイメージするからです。失敗には敗北のイメージがあり、死のイメージがあります。一連のイメージに束縛された途端、毛嫌いし、安易な方法でイメージから逃れようとします。自然で健康な反応ですが、元を正せば不安に弱いだけで、その対処方法はビジョンを持つことなのです。

ビジョンのある人生には、ロマンそのものである理想主義がありますが、ビジョンのない人生にはあきらめが前提とした宿命主義があります。つまり主体性がある人生か、そうでない人生があります。あなたとどちらを選択しますか?

主体性を失えば、ハードワークを毛嫌いし、楽に過ごせることを選択します。知らず知らずに人々の幸せに目もくれなくなり、自分のメリット中心になります。無意識の内にパートナーに幸せにしてもらうことを考え、パートナーを幸せにしょうとポジティブに関わらなくなります。その代わりに生き甲斐よりもやり甲斐にこだわり、思いつきで募金に協力し、作られたドラマに涙し、プロスポーツの応援に一体感を覚えます。主体性を失えばどのような経験も結局は疑似体験でしかないのです。

しばしば私たちは「人生は理屈どおりにはいかない」と言いますが、そう言うときの理屈は、へリクツ、こじつけ、プライベートな感想のことで、それは体系化された理論のことではありえないのです。

人生は悲観的になるものでもありません。他人のネガティブな意見に耳を貸すより自分を信じて出来る限りの努力をしたらいいのです。決して他人が信用できないということではありません。自分を信じたいではありませんか。その時に役に立つのが努力して夢を叶えた人々の在り方です。もう自分は精一杯の努力をしたと思ったとき、まだまだ十分にしていないことに気がつきます。気がついたら、考えても仕方のないことを考えず自分を信じて進めばいいのです。

ライフスキルとは、自分を信じる力だと言えます。つまり未熟であっても、自分はなれる最高の自分になることができると信じることができれば、未熟さはエネルギーの源泉となって自分を成長させてくれます。成長が乏しく、欲しいものが何か分かっていない人に欲しいものは手に入りません。理由は簡単です。集中しないことは経験しないからです。ビジョンは欲しいものを明確にすることです。イメージできるのは集中するからです。

自分のビジョンを大事にしてイメージに高めてください。 あきらめているとイメージが明確にならないのでどうしていいのか分からないので、あきらめに拍車がかかります。拍車がかかると「人生は理屈どおりにはいかない」と分かったような顔をして平気で言うようになります。

イメージにする方法はビジョンに関連したテーマひとつひとつを具体的にしていくことです。道は開けます。あなたは歩かずにいられなくなります。今まで使っていたフレームは壊れます。


2013年6月4日火曜日

仕事は愛


人は誰でも年齢を重ね老いていきます。老いとともに意欲が減退するのは無理もありません。かっては走ることができたのが、ゆっくりしか歩けなくなります。「身障者でも会社経営しているではないか」というのはもっともであっても、それを誰も真似できるわけではありません。

では、やはり老いの前に意欲を失うのは仕方がないのでしょうか?
答えはノーです。
実は意欲は年齢に関係ありません。若くてもやりたいことのない人に生気はありません。なにかにつけ安定を考えて挑戦を拒みます。自分では自由を選んだつもりでも実際には不自由を選んでいるのですが、この種の人には届かないことです。

自由な人は、強制することも、恐怖を与えることもありません。他者のルールに従わなくても、自分自身の内側から、選択と集中が発揮されるからです。
老いに屈するのは、実は老いに屈しているのではなく、ルールに屈しているのです。「自分はもう70歳だ。いまからなにかできることはない。」・・・こう思うのは自分のルールではなく、世間のルールで判断しているからです。

アルプスを制覇した三浦雄一郎さんは、決して万全でない身体を前提として、アルプス制覇に臨みました。目標達成から逆算して必要なことを自らに課してクリアした結果の挑戦です。このルールは、やりたいことを実現する人に共通したルールです。それは誰かの真似ではなく、理に叶ったことにすぎません。どうしてもやり遂げたいと思ったとき、だれもが講じる手段です。

老いとともに意欲が減退しない自分で‘あるために、重要なことは、たったひとつ。ミッションを持っていることなのです。

しかし、考えてみてください。ソフトバンクの孫さん、大リーグでプレーするイチローさんのように早い段階で、自分のやりたいことを明確にしている人は稀です。大半は会社勤めしながら目覚めていくものです。30歳、40歳になってやりがいを通じてミッションを感じるのが大半です。優秀と思われる人でもその程度です。すると60歳までに与えられ期間は30年から40年です。長いようでも実際には短いのです。

しかもミッション、使命とは、やればやるほど深まるので、自分のルールで取り組んでいたら、60歳、70歳はまだまだ意気盛んな状態になるものです。自分の内側にあるミッションの達成を望む意欲があれば自分のルールで自分を動かすことができます。

つまり、それが愛なのです。

仕事は愛です。愛とは仕事にも恋愛にも結婚生活にも、あるいは介護にも通じているものです。本当の愛には自由があります。愛がもたらす自由には、尊重があります。
「あなたが私の言うことを聞けば、愛してあげるよ」というところに愛はありません。
「あなたが私の商品を買えば、親切にしますよ」 というところにも愛はありません。
「あなたが私を褒めたら、あなたに感謝しますよ」というところにも愛はありません。

愛は引換に得る物でも、与える物でもありません。
愛とは自他ともに尊重することであり、自由を尊重することです。
ミッションとは愛そのものなのです。

あの人を少しでも幸福にしてあげたい。
あの人を喜ばせてあげたい。
あの人たちの暮らしに少しでも役に立ちたい。
あの人たちを少しでも安心させてあげたい。

これらの思いは、取り組めば取り組むほど、やがてミッションに成長していきます。
併せて人間力、ライフスキルが磨かれて行きます。

しかし、反対にミッション、あるいはミッションの種になることがなければ、どうなるでしょう。

何のために仕事しているのか分からなくなります。つまり自分のルールがないので、老いと共に世間のルールで判断するしかなくなります。他者の真似をするしかないのです。「こんなものだろう」という判断です。

これを若い時に置いてみましょう。自分のルールがないので、他人の真似をして「こんなものだろう」という判断を重ねていきます。これを結婚生活に落とし込んだらどうでしょう。隣の夫婦と比べて、同僚の家庭と比べて、遜色がないから、こんなものだろうと判断して暮らす生活をどう思うかは自分の判断です。しかし仕事場面で振り返れば、他店と同じような店がいくらあっても、消費者は共感しません。つまり売れないのです。

幸福な仕事をしたいなら、幸福な結婚生活をするのと同じで、他者からの外側の評価に身を委ねないことです。他者の内面にまで評価する人、目配りする人は、余程、特別な関係にある人だけです。親でさえなかなか関心を持ってくれません。代わりに外側の評価をします。その結果、子どもは親を無視するようになります。仕事で顧客が共感しなくなるのと同じです。

人は早い段階から、いくつになっても主体性を持ち、自分の内側を大切にするようにすれば幸福な人生が送れるようになっています。
なにかと問題があるように感じて、疲れたときには、是非思い出してください。



2013年5月30日木曜日

ルールブックを手放す


人はそれぞれに自分の思いがあります。その思いの正体は「こうあるべき」という思い込みとも言えるルールです。自分のルールブックを持ってやはり自分のルールブックを持っている相手とコミュニケーションすると、必ずぶつかります。人間関係はこじれます。

しかし、コミュニケーションで大事なことは相手をやりこめることではありません。物事をよりよい状態に持って行くことと、相手を尊重するかどうかというのは、次元の違うことです。

このことが分かっていない人は、そもそもが分かっていないようです。つまり大局観が欠如しているので、なにが問題かがつかめないまま、問題解決に踏み込みます。

問題を複雑にするのは、自身は熱心なつもりなことです。しかし間違った努力は状態を混乱させるだけです。これが分からないので残念な結果になります。

残念な結果は自分でも分かっているので、他者の視線が気になります。ますます問題解決より、対人関係に於ける自分の立場(自己重要感)が気になります。結局自分の立場を優位にするためにますます人間関係をこじらせるので、孤立していきます。

孤立を避けるには群れるしかありませんので、群れを作ります。これで幸福な成功を手にすることはありません。そもそも自分のルールブックなど不要なのです。

あるとしたら人間に必要なルールは尊重と成長のためのルールだけなのです。


2013年5月13日月曜日

事業計画書には2種類ある。


事業計画書はスケジュールを決めて、1ヶ月後、半年後、1年後、3年後、という具合にそのスケジュールを書いていきますが、小学校の頃の学習計画表、年度ごとの予算表と同じでそのまま実現できることは少ないのが一般的です。

目標があって理想の一日を決める。その通り実行していけば収益もこの程度になるだろう、労働時間も半年後には縮小できて、別の事業も展開できるようになるという希望で終わります

書くことは自分の意識を知り、考えていることを明確にできるので、物事の位置づけができるようになります。その反面、書くことで満足してしまうこともあります。事業計画書は社内、銀行、仕入れ先、行政その他関係先との交渉に必要になりますが、それでも最終的にはスケジュール表に成り下がることがあります。書いたことで満足してしまっているからです。それでは意味がないのです。これはプレゼンしてもらうとすぐにわかります。

成功する人の本当の事業計画書、あるいは予算表も同じですが、結果が書いてあるものです。結果が書いてる事業計画書とは、これを書き込んだ段階で重要な仕事が完了している計画書です。だから結果が見える事業計画書と、まったく作業が進んでいない目標だけが書いてある事業計画書があるのです。

それは予測される問題点、リスクが洗いざらい書かれていて、その対策も具体的に書いてあります。しかし大事なことは、それだけではありません。予測される問題点、リスクが起こらないようにするために、どうしておくかということがイメージできるように具体的に書かれています。つまり2段構えになっているのです。しかも細かい点まで気配りがされています。大きな問題は滅多に起こりませんが、些細な危険は常に身近にあります。しかし時間が奪われストレスが意欲を削ぎ、結果を引き下げます。だから因果関係を考えて、事前に打てる手は因果関係の全部に打っているのです。それも結果にたどり着くために必須だからです。

ですから審査する者にすれば、書類選考だけで、事業計画の信憑性が見て取れるのです。
プレゼン段階での質疑応答では、さらに突っ込んだ質問、応答が可能になります。
しかし、まったく作業が進んでいない目標だけが書いてある事業計画書では、面接またはプレゼンの時に、質疑応答の時間を使って予測される問題点、リスクを初めて確認することになるので具体的な回答が乏しくなります。



さらに 成功する人の事業計画書 には願望が書かれています。年商1億円以上、休暇は1ヶ月以上、というものです。意志を明確にすることで実現の可能性を高めています。
実際の行動段階では繰り返しいつも検証しています。この種の人にとって事業計画書は自分の地図であって、きれいごとの予定表ではないのです。

クレドも同じです。



2013年5月9日木曜日

間違った努力をやめる方法


小売サービス業の成長を著しく阻害している要因は、計画経営、効率経営、成果主義の取り扱い方、そしてこれらを機能させるマネジメント手法が正しく使われない点と、マネジメントの核であるPDCAを効率的にする科学的アプローチである観察〜分析~判断する能力を、現場管理職が使えない状態にあることです。さらに部門別管理の実績で現場管理職の評価が行なわれる点も重要です。

言い換えればこれらが機能していると阻害要因の多くは撤去されることになります。これらが機能しない原因は、その必要を感じて採用しないことにありますが、その背景には組織の背骨である責任と義務の遂行が正しく行われていないことにあります。

責任と義務の遂行が正しく行われていない理由は部門別管理に於ける評価が我流で行われる点にあると言えます。

結局、これらが正しく運用されないために、人材が育たないという問題を生み出してしまいます。つまり仕事のやり方が混乱しているために、努力にふさわしい評価、努力をしたくなる仕組み、努力できる能力が身につかなくなってしまうのです。しかし現実には努力しているために状況はさらに酷いものになってしまいます。つまり間違った努力が報われないまま努力を続けることで疲弊してしまい、見せかけの勤勉に終始してしまうのです。

これは会社にとって大きな損失ですが、働く個人にとっても、大きな損失なのです。

これらを是正するには、まず計画経営、効率経営、成果主義の取り扱い方、そしてこれらを機能させるマネジメント手法、PDCAを効率的にする科学的アプローチである観察〜分析~判断する能力のトレーニング、部門別管理と現場管理職の評価、評価の基礎になる責任と義務の正しい認識を正常化することです。



2013年3月12日火曜日

プロセスへの共感


褒められてうれしくない人はいないと思います。
褒められたことをまたやってやろうと思うもので殆どは今後もそのまま再現できることでしょう。

喜びというエネルギーは使えば使うほど大きくなるので、使わない手はありません。但し結果について褒めるのはおすすめではありません。

褒めてあげるならプロセスを、さらに言うなら上から目線になってしまう褒めるではなく、共感してあげるようにします。「褒める」のは意識さえすれば簡単に行えます。特に結果を褒める場合は結果さえみれば可能です。例えば数値がそうです。


しかし、プロセスに共感しようとすると、プロセスでの行動、意識の在り方への関心がないと共感できません。つまり人物に焦点をあてないと分かりません。だから共感された方は自分のことを見ていてくれているという信頼感が芽生えます。「結果を褒める」場合は「口だけ」だろうという不信感が伴ってしまいますが、プロセスへの共感にはこれがありません。

【プロセスへの共感】
「こういう結果が出たのは、君が日頃からホスピタリティを実行してきたからだよ。」

【結果をほめる】
「素晴らしい結果だね。よく頑張ったね」


違うでしょう。プロセスの共感の場合は再現性が簡単だし、一緒にいてくれている信頼感が生まれます。
仕事でも、家庭でも、子育てでも同じです。




2013年2月25日月曜日

自分を観察する力



グローバルな社会になり、ソーシャルネットワークが進化し、昔出来なかったことが、簡単にできるようになったボーダーレスな世界になるほど、私たちは、平素、日常の生活のなかでは自分以外の外の世界に注意をくばることに忙しく、深く自分をみつめるヒマがありません。

周囲にばかり気をとられていると、自分を見うしないがちになり、自分自身に気がつかなくなります。すると自分のために、他を責めたり、他を悪いものだと決めつけ、その結果、他を変えようとしたがるものです。

これからはあらゆる分野でホンモノが要求される時代になってゆきます。

ほんとうの自分を知ることを確実にするということが、なによりも大切だと認めるのにためらってはならないと思います。社会生活をいとなむ人間として、自分の行動様式や感じかたを自覚できない人聞は、魅力のない存在となります。


人聞は自分を客観視できるときにだけ自分という存在を意識します。自分を客観的に観察して、深く自分を知ることが自己改造の第一歩となるでしょう。