2013年7月24日水曜日

楽観主義で行こう


楽観主義の中心にあるのは、PDCAと粘り強さだ。
PDCAは人間が考えついた最も素晴らしいことのひとつだ。PDCAはあらゆる挫折、失敗を粘りで黄金に変える。

潜在能力を引き出し成長を信じるのが楽観主義だ。

悲観主義の人はPDCAを使わない代わりに問題を放置する。それは黄金をドブに捨てるに等しいので、他人や世の中にせいにする。

自分自身で能力の限界を設けて、見殺しにするのが悲観主義だ。

楽観主義の誠実さと慎ましさ、悲観主義の放蕩。難しい話ではない。どちらが好きかという問題だ。

「これしかない」と信じて疑わない場合には、楽観主義で行こう。


集中力は未来を切り開く力




集中力とは未来を切り開く時間
集中力のコントロールは未来に向かう時間管理だとも言えます。

目標達成に向かう限られた時間に自分のすべてを投入することです。そのためにはそれ以外のことをどれだけ遮断できることが決め手になります。

時間を有効に使うとは目標に集中することです。

「ながら族」だらけの現代は集中力からどんどん遠のいているように見えます。「ながら」とは目標を複数持つことです。言い換えると緊張を必要としない目標です。慣れ親しんだ過去を生きているとも言えます。その姿に感銘も共感もないでしょう。

集中力に磨きがかかる毎日でありたいものです。



2013年7月20日土曜日

幸福な人生、幸福な成功のために、幸福な仕事の生き方




■Beプログラム

私は企業に、年度の方針として「Be ○○○○」を提案する場合が増えています。Beとは,
ビートルズの名曲「LET IT BE」のBEであり、ハムレットのBEです。(「To be or not to be, that is the question」にはいろんな解釈がありますが、それはbeをdoのように解釈しているために生じた混乱だと思っています。) 

○○○○の箇所 には社名が入ります。”会社”になるとは、その企業に属する人たち、ひとりひとりが会社のポリシーを体現する人になるということで、裏返せばポリシーを浸透させるということです。

そのポリシーは会社に関わるすべての人々を幸福にするというものです。その提案は快く受け入れられて進行していますが、背景には「幸福生産性最大化」というコンセプトがあります。

誤解されないように付け加えますが、成長が困難な右肩上がりでない時代には、ポストも給与も増やすことは、決して簡単ではありません。その代替としてそれ以外の要因の必要と決断が余儀なくされていますが、だから他の要因で我慢しろというのではペテンであり、真の幸福生産性最大化にはなりません。それでは経済的な生産性の向上は望めないのです。

自分が働く会社が社会的な役割を担い、共感した従業員ひとりひとりが自分の役割を受け入れて行動しているとしたら、どんなに素敵でしょうか。
経営者が企業の存在意義を深く理解し、深い理解から生まれた理念と方針に、賛同した者が集まり、それぞれ自分にふさわしい役割を認識、つまり従業員、株主、顧客、関係業者としてチームワークで経済活動を行うことが、関わるすべての人の幸福度を高めるのです。
もし利益の追求のためだけに会社があり、参加した者もそれ以上のものを持たず期待もしない場合には、破壊だけが進む危険があります。


■幸福とは?

「幸福生産性」と掲げる以上、なにより幸福の定義が問題になります。しかし幸福は主観的なもので普遍的に定義づけることは不可能です。100人いれば100通りの、1000人いれば1000の幸福があります。取り組みにあたりヒヤリングをしましたが案の定、幸福のイメージはとらえようがありませんでした。

「幸福生産性」の具体的な展開について、研究すればするほど、ブータンのGNHに行き着きます。GNHは日本や先進諸国のポストGDPですが、昨年皇太子ご夫妻が新婚旅行の際、訪日されたことでブータンとGNHは一気に広く認識されるようになりました。

そもそも、私が「幸福生産性」を考えた段階ではブータンのことも、GNHのことも、荒川区のGAHのことも知りませんでした。私にあったのは、<DO>よりも<BE>の必要性…………つまり、何をするかより、何者になるかの重要性だけでした。なぜなら幸福な人にしか幸福は生み出せないないからです。

幸福を定義づけできないのに、「幸福な人にしか幸福は生み出せない」というのは奇妙なな話だと思われるかも知れませんが、幸福な人とは、欲しいもの、つまりある形を手に入れた人ではなく、手に入れたものを欲しいと思える人なのです。何をしたから、何を持ったから、つまり形ではなく、人の在り方なのです。それが<DO>よりも<BE>が重要だという由縁です。


■幸福な人の在り方

人の在り方について簡単に触れてみましょう。
人生とは選択の集積地ですから、選択のたびに、本当の自分に焦点を合わせて選択することを続けた後に、自分の人生の完成をみます。
もし、他者あるいは借り物の価値観で選択を重ねたら、自分の人生はどこにも見つけることはできなくなります。このような人の場合、 どのようなものを手にしていたとしても 賽の河原をウロウロしたような頼りなさだけが残り、自分の在り方が否定される気分に陥るでしょう。

自分を発見する人の旅は、本当の自分に焦点を合わせた上で、あらゆる機会に於いて選択を重ねた後に、表面よりはるかに深いところに、余分なものを全部投げ捨てたときに、真実の自分を発見して、ついに発見の旅は終焉を迎えます。その時、静かですが、ものすごく熱く、決して揺るがない勇気を感じます。それを気づきと言う人もいますが、気づきはプロセスで起こることで、終焉では統合と言う表現がぴったりするでしょう。バラバラだった自分がいつの間にか全部ひとつにつながった感じです。 大きな感動はなく狐につままれたような不思議な感覚に陥るでしょう。

繰り返しますが、幸福な人とは、欲しいものを手に入れた人ではなく、手に入れたものを欲しいと思える人なのです。それを実感して、自分の価値観にできたとき、間違いなく、真実の自分に出会えます。そして幸福な人になります。その瞬間、たとえばあなたは自分がとっても素敵な人間であったことを実感して、肯定も否定もなくただ自分がいるだけだと気がついて 自己否定感の過ちから解放されます。


■『マディソン郡の橋』

幸福な人とは、欲しいものを手に入れた人ではなく、手に入れたものを欲しいと思える人です。その良い見本が映画、文学の世界に発見することができます。世界的なベストセラーであり、その後もロングセラーとなり、クリント・イーストウッド制作、監督、主演によって映画化されたロバート・ジェームズ・ウォラー原作の『マディソン郡の橋』です。

表面的には不倫をテーマにしたラブストーリーですが、世界中で共感を生んだのは、たった4日間の出来事に人生のすべてを喜んで捧げたその在り方にあります。この映画はまず女性の死後、遺言を読んだ遺児たちの否定的な感情から始まり、最後には肯定的な感情にたどり着き、母親の遺言を全うすることで、残された遺児の共感と祝福を受けてロマンスの完結を見ます。

女性が誰も傷つけたくないがゆえに、生涯秘密にしたことを、死後に告白せずにはいられないのは、母親として責任を全うした死後でしか告白の機会も願望の叶わう機会もない切迫からです。そして皮肉にも、もっとも傷つけたくなかった遺児の協力なしに願望の叶わない地団駄が切なすぎるのです。その地団駄が共感され、理解されることで、母親という役割を終えると共に超えて、フランチェスカという個人として尊重され永遠の想いは安堵するのです。

偶然、手に入れた4日間の出来事を大切に守るために、家族全員に対する責任を果たし抜いた女性の母親としての在り方と、母親を大切にして、再会を求めることもなく慕い続けた相手の男性、二人の長くて短い人生で何度も問われ続けたであろう「選択の在り方」への畏敬の念が核心です。 まさしくこの作品は、人生あるいは人の在り方と同じく、その表面よりはるかに深いところに、余分なものを全部投げ捨てたときに、真実の自分を発見できるようになっています。

希望のない幸福はないと思いますが、ここでは自らの選択で希望さえも放棄したものを欲し続けた人間の在り方が胸を打ち続けます。簡単に言えばキャンディの入っていないキャンディの箱をダイヤモンドのように後生大事にして、全人生を捧げることができるというかという問いかけなのです。つまり異性への感情に限らず、幸福とは在り方のなかにしか存在しないということなのです。在り方は選択によって決まり、選択は在り方によって決まっているという事実です。幸福な人にしか幸福は生み出せないというわけで、幸福な人にしか幸福な結婚はできず、幸福な仕事もできないのです。

 俗な目線で見れば『マディソン郡の橋』は、とてもネガティブであり、狂気と受け取られるかも知れませんが、幸福とはなにかについて 論議してみればするほど分かるように、幸福とは人の主観でしかないのです。
『マディソン郡の橋』で何より重要なことは、その選択が自分の価値観そのものである点と責任を引き受けてアサーティブ(積極的自己主張)に生きる点なのです。そしてこの作品のメッセージに魂で共感できる人こそ、幸福とはなにかを定義できる幸福な人ではないかと思うのです。

幸福生産性

『マディソン郡の橋』をヒントに、仕事を考えてみましょう。
最初に自分が働く会社が社会的な役割を担い、共感した従業員ひとりひとりが自分の役割を受け入れて行動しているとしたら、素敵だといいましたが、では共感もなく働きがいを感じていなかった人はどうなるのでしょう。

マディソン郡の物語が偶然の出会いから始まったように、私たちもその職についたのは、お金のためで偶然だったということは少なくありません。しかし、どんな仕事にも意味を見出すことはできます。意味を見出せるのは自分の在り方だからです。働きがいもやりがいもない職場でも、自分の在り方で見つけることができる。未だ在り方が定まっていない人に、在り方を見出せるように巻き込むのがリーダーシップなのです。

「Be ○○○○(社名)」とは「選択の在り方」が会社のポリシーに従うということです。従って会社のポリシーが幸福から逸脱したものでは、幸福生産性は漫画になってしまいます。しかし実際には漫画にもならない会社と人たちが溢れています。理念はあっても、どこにそんな風が吹いているのかも分からない会社、風が吹いていてもキャッチできないマネジャー、まったく気にもかけない従業員・・・・実際にはこんな現象が大多数なのです。追い討ちをかけるように、働きがいと幸福の関係は、それぞれが独立した重要なテーマになることはあっても、関係性が問題にされることは稀です。

しかし、働きがいのある職場で働けることは幸福なことです。にもかかわらず概して企業が働きがいに熱心でないのはどうしてでしょうか?だからこそ「幸福生産性」をアプローチする価値があると考えられます。あなたの職場に意欲がないなら、あなたが行動を変えることで、意欲的な職場に変えることはできます。あなたがリーダーシップを内包していればリーダーシップが機能するのです。「人の在り方」つまり「人間力」とはそういうことです。

働きがいは気分ではありません。働き方がアルバイトでも、自営業でも、会社勤めでも、生産性にダイレクトに影響する精神衛生上、重要な要因です。感情は取引する双方に重要な影響を与えます。

私が人時生産性(ひとり一時間当たりの生産性)を提唱したのは、およそ30年前で、非常勤雇用の重要さを説いたときも、容易に受け入れられませんでした。しかし、じわじわと広まり、一般化した暁には、重要な視点が欠けているように思い、限界を感じていたのです。私が人時生産性、非常勤雇用の重要性をアプローチしたのはコスト削減だけが目的ではなかったのですが、コスト面ばかりが強調される結果になっていったことへの違和感があったのです。私がアプローチした背景には、先に言ったように企業理念と方針に賛同した者がそれぞれ自分にふさわしい役割で参加して経済活動を行い、関わるすべての人が幸福になるという目的がありました。

私には幸福な人にしか幸福は生み出せない確信があり、働いている人が幸福な会社こそ、得意先、仕入れ先、地域社会など関わる人々も巻き込んで幸福になるという期待があります。そのために自分がどんな在り方の人になるのか、という明確な目的を持ち、それが達成できたとき、共感によって生産性は飛躍的にアップする考えています。それが「幸福生産性」の内なる核です。

幸いにも「幸福生産性」を掲げた直後に大好きな福井県が幸福満足度全国ナンバー1になったと報道されたのを契機にそれぞれの
点は一気につながり、線となって私の心を捉えイメージはさらに明確になりました。

■ポストGDP 幸福満足度への取り組み

GDPとはGross Domestic Productの略で国内総生産のことです。GDPは通常一年間という一定の期間内に新たに生産された財やサービスのの付加価値金額の総計です。GDPが伸び続けると私たちの暮らしは良くなり、満足度は高くなるのが通説ですが、世界に類を見ない奇跡的な復活を遂げたにも関わらず、幸福感については、戦後から大して変化していません。この事実は日本のみならず世界的にも驚きで、GDPという尺度つまりお金が人を幸福にする要因にならないことを突きつけた形になっています。

一方、ブータンのGNHは、Gross National Happinessを省略したもので、翻訳すると国民総幸福量を意味します。GNHはブータンの風土と人の関係性から生まれる智慧を生かした国づくり、方向性なのです。 GNHは政府が国民を幸福にすることを約束したものではありませんが、 GNHによって、<Be>………どのような政府になるべきかを明確にしているのです。その結果、97%の人が幸福であると満足しているのです。 ブータンの人々にとってGNHは哲学なのです。

GNHに似たものは他の国にも見つけることはできます。
カナダのwell‐being指標もそうです。well‐beingも幸福な状態を意味します。
オーストラリアでも同じことが展開されています。

日本でも真の豊かさ、幸福な暮らしをテーマに生活の質を高める試みが行われている東京都荒川区のGHA政策(荒川区民総幸福度)があります。区民の幸福度を向上させることが区政の役割とポジションしています。都心部での貴重な試みです。

さらに幸福満足度全国ナンバー1になった福井県では、東大と提携したLHI(ふるさと希望指数)研究プロジェクトが行われています。LHIでは5分野20要素を統計指標に設定しています。

これらのどれにも共通しているのはなにより家族や地域との親しい関係性です。企業でいえば社内にあっては上司と部下の関係、社外にあっては顧客、地域社会との関係といった見えない資産に原価意識を持ち、連帯感、尊厳、信頼、誇りを持って働ける仕組みがあれば幸福な会社に近づけるのです。マーケティングでよく話題に上る「顧客生涯価値(Customer Lifetime Value)」も本来はその典型的な事例なのです。「顧客生涯価値」の観点からも、ブータン政府のGNH、福井県のLHI、荒川区のGHA等に於ける行政側の態度は正しいと思えるのです。私たちひとりひとりにとって重要なのは、それが家族、会社にも応用できるということです。そしてなにより、手にしたものを欲しいと思える人になるために、社会人になることです。「幸福生産性最大化」も、より精度アップするために、もともとのベースとミックスして活用していきたいと考え実行しています。


■社会人

「社会人になる。」誰もが耳にして、口にしていると思います。
社会人とは何でしょうか?働く人のことでしょうか?高校生のアルバイターは社会人ですか?アルバイトは働き方です。高校生は学生です。社会的な生き者でないわけではありません。社会人と言わないのは彼らがまだまだ社会人になるために学んでいる人たちだからです。それが分かっていないから、勘違いしたモンスターペアレントが出てきます。学校は企業人を育てる場所ではなく、社会人を育てる場所なのです。しかし社会とお金儲け、あるいは自己実現の場と混同されたらどうなりますか?

社会とは、個人と国家(政府)の間にあるものがそうです。日本では個人がすることか、政府がすることに大別されていて、そこからはみだしたことは見てみぬふりをされます。地域のつながりがなくなったと言われるのは、暮らし方の問題ではなく、人間の在り方が変わり社会人がどんどん減少したからです。どんどん減少したのは、社会が曖昧になったからです。敗戦から復興のプロセスで、政府が頑張ってくれたので、社会人のすることを政府に預けて、経済活動に専念できたのです。それがうまく機能しましたが、同時に弊害も多く生じたのです。

しかし、世界も驚く急激な復興~成長は、少し乱暴すぎたようで、生産性をあげるために、幸福の代替もので幸福だと考える知恵は、どんどん進化しましたが、 余りにも長い間、気にしなかったせいか、 引換に幸福になる知恵を忘れたようです。復興のプロセスで内包した弊害も噴出し始めました。実は、幸福になる知恵や技術の集積場所が社会であり、そこで機能するように社会人になる必要があったのです。

人はみんな社会には、さまざまな形で参加しています。基本的なポジションは社会人としてみんな一緒です。経済活動も社会人としての参加の在り方です。経済活動をしない社会人もいます。会社の社長も、詩人も社会人です。この点は十分認識されていると思います。しかし実際には、役割に閉じこもって、役割以外の活動をしなくていいと錯覚した社会人があふれています。ボランティアの人たちがしていることは、社会人みんなでシェアすることであり、たまたま誰かに頼まれたからという理由でもなく、自ら率先して手をあげただけのことです。ほとんどはみんながすることである場合が多いのです。

道で人が倒れていたら助けるのは 会社の仕事ではなくても、社会人としての仕事です。電車で身体の具合の悪い方が立っていたら席を譲ってあげるのは、 会社のお得意様でなくても、社会人として仲間をいたわることです。何のためにでしょう?「社会」とは何か、「社会人とは何か?」その答えはそこにあります。年金の問題でも片付かないのは、社会人の理念や役割、政府の役割が曖昧だからではないでしょうか?

私たちはひとりひとりが連帯した社会人なのです。幸福な生き方をする上で、そこが出発点だと認識しておいてください。社会人になることを抜きにして、手にしたものを欲しいと思える人にはなれないのです。
幸福な成功を手に入れるには、次の点を整理しておきましょう。

・社会とはなにか?
・社会人とは何か? 
・幸福とはなにか?
・幸福な人とはどのような人か?
・自分にとっての幸福な成功とは?
・大から小まで、自分の選択の基準は?



2013年7月19日金曜日

ビズ・アサーティブと幸福生産性


お互いの妥協点を探るというと「我慢」のイメージがちらつき消極的な印象を受けます。
お互いの違いを否定せずに、ただ受容するだけでは、ノン・アサーティブ(非自己主張的)あるいはアグレッシブ(攻撃的)になる可能性があります。自分を大事にするように、同じように相手も大事にする。共感力があってこそ接点をアサーティブに見出すことができます。

アサーティブとは、積極的に自己主張することです。「積極的に自己主張」というと誤解される方もいますが、攻撃的に自己主張することではありません。

他者に対して、自分の考え、意見、感情を抑圧して遠慮がちになるのがノン・アサーティブ(非自己主張的)。
他者に対して、自分の考え、意見、感情を押し付けて支配的になるのがアグレッシブ(攻撃的)です。

つまりアサーティブとは、自分の考え、意見、感情を「率直、誠実、対等、自己責任」で表現するものです。

ノン・アサーティブ、アグレッシブには、アサーティブの柱である「率直、誠実、対等、自己責任」が不足しています。不足する理由は、人によって仕組みが違いますが、意識すること、さらに仕組みを知り変えるこで不足をなくすことはできます。

マートワンが提唱する「ビズ・アサーティブ」とは、これをビジネスの現場に落とし込むことですが、ノン・アサーティブ、アグレッシブな人が多いので、決して簡単ではありません。

しかし社内、社外、さらに従業員個人個人の意識がWINーWINに変わり、そのプロセスを通じて「幸福生産性」という概念が生まれます。