2013年3月12日火曜日
プロセスへの共感
褒められてうれしくない人はいないと思います。
褒められたことをまたやってやろうと思うもので殆どは今後もそのまま再現できることでしょう。
喜びというエネルギーは使えば使うほど大きくなるので、使わない手はありません。但し結果について褒めるのはおすすめではありません。
褒めてあげるならプロセスを、さらに言うなら上から目線になってしまう褒めるではなく、共感してあげるようにします。「褒める」のは意識さえすれば簡単に行えます。特に結果を褒める場合は結果さえみれば可能です。例えば数値がそうです。
しかし、プロセスに共感しようとすると、プロセスでの行動、意識の在り方への関心がないと共感できません。つまり人物に焦点をあてないと分かりません。だから共感された方は自分のことを見ていてくれているという信頼感が芽生えます。「結果を褒める」場合は「口だけ」だろうという不信感が伴ってしまいますが、プロセスへの共感にはこれがありません。
【プロセスへの共感】
「こういう結果が出たのは、君が日頃からホスピタリティを実行してきたからだよ。」
【結果をほめる】
「素晴らしい結果だね。よく頑張ったね」
違うでしょう。プロセスの共感の場合は再現性が簡単だし、一緒にいてくれている信頼感が生まれます。
仕事でも、家庭でも、子育てでも同じです。
2013年2月25日月曜日
自分を観察する力
グローバルな社会になり、ソーシャルネットワークが進化し、昔出来なかったことが、簡単にできるようになったボーダーレスな世界になるほど、私たちは、平素、日常の生活のなかでは自分以外の外の世界に注意をくばることに忙しく、深く自分をみつめるヒマがありません。
周囲にばかり気をとられていると、自分を見うしないがちになり、自分自身に気がつかなくなります。すると自分のために、他を責めたり、他を悪いものだと決めつけ、その結果、他を変えようとしたがるものです。
これからはあらゆる分野でホンモノが要求される時代になってゆきます。
ほんとうの自分を知ることを確実にするということが、なによりも大切だと認めるのにためらってはならないと思います。社会生活をいとなむ人間として、自分の行動様式や感じかたを自覚できない人聞は、魅力のない存在となります。
人聞は自分を客観視できるときにだけ自分という存在を意識します。自分を客観的に観察して、深く自分を知ることが自己改造の第一歩となるでしょう。
2012年12月8日土曜日
【本気の力】判断、決断、選択
判断と決断は似ているようだが違う。
判断は論理的に考えて結論を出すが、決断はこれで後悔しないと決めて退路を断つことだ。英語のコミットメントに近い。
論理的に考える点に「選択の基準」という魔物が潜んでいる。
選択と集中というが、選択の基準はひとりひとり違う。
論理的に考えるというが論理の向こうには五感で育んだ人間関係の構えと独自の人生観がある。これに支配された上での論理だから実際は論理の仮面をかぶった感情に近い。
だから話が噛み合わない。どういえばこいつには分かるのかと思っても論理で説明ができない。 説明できないのではなく感情に阻まれて通用しないのだ。
言い方を変えると実際には分かっているが認めたら自分が崩壊するのが怖くて拒否しているのだ。あるいは自分が求めている感情体験がある。こんなものにつきあっていたら会社は潰れるし、意欲のある人間は離れて行く。
仕事であれ、恋愛であれ、何事も結果は人間の鏡なのだ。 結果を変えるには行動を変えるしかなく、行動を変えるには選択を変えるしかなく、選択を変えるには選択の基準を変えるしかなく、選択の基準を変えるとは人間を変えることなのだ。
判断は論理的に考えて結論を出すが、決断はこれで後悔しないと決めて退路を断つことだ。英語のコミットメントに近い。
論理的に考える点に「選択の基準」という魔物が潜んでいる。
選択と集中というが、選択の基準はひとりひとり違う。
論理的に考えるというが論理の向こうには五感で育んだ人間関係の構えと独自の人生観がある。これに支配された上での論理だから実際は論理の仮面をかぶった感情に近い。
だから話が噛み合わない。どういえばこいつには分かるのかと思っても論理で説明ができない。 説明できないのではなく感情に阻まれて通用しないのだ。
言い方を変えると実際には分かっているが認めたら自分が崩壊するのが怖くて拒否しているのだ。あるいは自分が求めている感情体験がある。こんなものにつきあっていたら会社は潰れるし、意欲のある人間は離れて行く。
仕事であれ、恋愛であれ、何事も結果は人間の鏡なのだ。 結果を変えるには行動を変えるしかなく、行動を変えるには選択を変えるしかなく、選択を変えるには選択の基準を変えるしかなく、選択の基準を変えるとは人間を変えることなのだ。
2012年11月30日金曜日
価値前提の経営、事実前提の経営
価値前提の経営と、事実前提の経営があります。
「価値前提」「事実前提」どちらもあまり耳慣れない言葉ですが、いい経営をしている会社に共通したスタイルが「価値前提の経営」です。
「価値前提」の反対が「事実前提」です。
Microsoftのビル・ゲイツはまだ学生だったときに、開発もしていないコンピュータソフトを納品する約束したことからビル・ゲイツの成功物語は始まります。その段階でコンピュータがどれなのかさえビル・ゲイツには分かっていなかったのです。
販促チラシに書いたコメントが、事実を曖昧に伝えているとしたら、あなたはどうしますか?お客さんのクレームを恐れて、訴求力が弱まることがあったとしても、事実に忠実で正確な文面に書き直しますか?
価値前提とは、たとえば顧客満足という価値観を実現するための経営。
事実前提とは、すでに出た結果を前提にしたもの、たとえば自社での実績を前提に選択する、あるいは業界の実績を前提にして選択する経営。
ビル・ゲイツはコンピュータを知らなくても、お客さんを満足させればすべてはうまく行くと考えたでしょう。あなたが販促チラシに向かいあったとき、どうだったでしょうか?クレームを恐れてお客様を満足させることを忘れていませんでしたか?文面が事実通りだと満足すると考えませんでしたか?嘘をついても良いというわけではなく、気にならないほどの感動を提供しようということなのです。それを提供するには、お客様に参画してもらうことが必要なのです。
挫折を乗り越えて邁進していく人は、価値前提の経営に取り組みます。
挫折を嫌い、ないものねだりをする人は事実前提の経営に取り組みます。一見、事実前提の経営は合理的で科学的なように思えるかも知れませんが、事実はひとりひとり違うものです。うまくいかなった原因がなにか、反省しない人には事実前提の経営は都合がいいでしょう。なにより結果の違いは価値観の違いによる行動の違いによるものが大半なのです。
行動は精神状態の結果であり、挫折を失敗ととらえず、挫折はひとつの結果にすぎず、挫折の連続が成功であるという考えに則ったものが、価値前提の経営に見られます。事実前提の経営にはこれが見られません。「やってみたけど、しかしダメだった。」これを事実として認識していたら、ほとんどのことはできません。
挫折を失敗ととらえる原因に、一定期間中に挫折が成功に届かないことがあります。どうしていいのか分からず考えている間に時間切れになってしまうからです。法人なら決算しなければならず、期限内に利益を出さないと赤字になってしまいます。そうしないようにするには、PDCAを繰り返し期間中に利益を出すようにしなければなりません。しかし挫折こそ成功の扉なのです。「どこが間違っているのか」を最小単位で追求することが基本なのです。分刻み、時間刻み、週単位、旬間単位、月単位、人によって、会社によって、違いますが、期限内に時間切れにならずにしょうとすれば自ずと答えは出るはずです。
もし、時間切れであきらめるということを繰り返していたら、成長がないことは明白です。本来「認識」とは、クリエイティブなことです。自分の能力を引き出すために自分なりの自由の解釈があってもいいのです。
ところがこれを「自分の能力を引き出すために」を切り離して、「自分なりの自由の解釈があってもいい」だけが一人歩きしたら、まったく無意味になってしまいます。それも一見自由なようですが、実際は枠に囚われた状態なのです。
たとえば人生とは何か、あなたはどう例えますか
人生とは戦いだという人もいるでしょう。
人生とはゲームだと言う人もいるでしょう。
人生とはダンスだと言う人もいるでしょう。
あなたは自分の認識でたとえたらいいのです。
それにしても、「人生とは戦いだという人」にとっては毎日は大変疲れることでしょう。
「人生とはダンスだと言う人」にとってはは、毎日は楽しいことでしょう。
物事が暗く見えるとき、冬の季節と言う人がいます。
春は楽しいイメージがありますが、冬と言うたとえには凍りつく、暗いイメージが浸透しています。実際には スノーボード 、スキー、スケート、雪景色を楽しむ人もたくさんいます。この人たちにとって、冬は一年で一番楽しい時なのです。スターバックスは、一般に衰退の一途と認識されている業界に乗り込んで、自分たちのやり方でお客様に感動を与えて大成功した会社です。なぜスターバックスにはそれができたのでしょう?認識が違ったからです。
枠に囚われた状態とは、他人の先入観に疑いもなく受け入れて囚われた状態です。なぜ、「自分なりの自由の解釈」と思ったことが、実際は枠に囚われた状態なのでしょう。一見「自由」に見えても、「自分の能力はこんなもの」という諦めが働いているからです。ある状況を「障害」と認識すると脳は実際にそういう状況を創り出し、行動は精神状態の結果であることを現実にします。これこそ「事実前提の経営」の落とし穴なのです。
自分の能力を効率的に最良の方法で引き出すには、脳を有効に使わなければいけません。状況は同じでもチャンスと認識すれば、自分の脳はそのように動きます。同じことは過去の経験にも言えます。経験そのものに意味はありません。経験に意味はづけをしているのは、自分なのです。状況の意味が変われば精神状態も変わり、一瞬にして行動も変わります。
枠を取り払うことが働く意味でもあるのです。それにはまず他人が行った比喩を、盲目的に受け入れるのではなく、自分の価値観で再定義してから比喩することが大切です。たとえばあなたの身近な人が亡くなった場合、どう対処するでしょうか?一般に悲しむことがあるべき姿と思い込んでいますが、悲しまないのを普通だとしている国もあります。
遠いどこかの話ではありません。それはあなたの質問次第です。
「体力も知力も衰えて不自由だったのに、天国デビューできて自由になって喜んでいるかな」と質問するのと、「この先も思い通りのならない心身で生きていけたのに可哀想ではないだろうか」 と質問するのではどうでしょう?成功者に共通しているのは最適な状況判断ができることです。
2012年9月13日木曜日
なぜ美人のトレーナーにつくとダイエットができるのか
女性がヨガレッスンなどで、美人のトレーナーにつくとダイエットができることがあります。 ジムでよく起こる現象です。
その理由は実に単純。 美人の先生を目にしながらトレーニングするので、美のイメージが強くインプットされ、美への執着心が強まり、「動因」が高まります。
動因とは、動機づけの原因のことで、モチベーションが高くなる原因です。 モチベーションが高くなる要素には、「動因」と「誘因」があります。
「誘因」は、動因を支えて達成に引っ張る要因です。 この事例の場合だと、美しくなりたい気持ちは自分の内側にある願望です。これが動因。それに火をつけるのが美人トレーナーというわけです。これが誘因。 「肩を叩いてくれたらチョコレートあげるよ」というようなごほうびなどインセンティブは誘因の代表です。
馬にニンジンではないですが、 トレーニングしたら、「こんなにきれいになれますよ」というサンプルが目の前にある状態といえます。 馬の目の前にニンジンをぶらさげても、ニンジンを食べることはできないと思うようでは執着心は生まれません。
なりたいという欲求よりも、私はあのようになれないと考えるようだと美人のトレーナーが熱心に教えても効果は出ません。 モチベーションが継続できない人には、執着心の不足があります。 ネガティブなイメージを浮かべてしまい、ネガティブな結果を考えて、自分が作り上げたイメージに支配されてしまうのです。
このような場合の対策は、ポジティブなイメージを描いて執着心を高めるといいのです。美人のトレーナーに接して、あんな風になりたいと本気で思えば努力できるのと同じ要領です。テーマがダイエットなくても、お金儲け、語学、何でも同じです。
ポジティブなイメージとネガティブなイメージ。自分がどちらを選択しているのか、感情的にならずに、しっかり事実を認識します。どちらが多いのか、自分の傾向を知る。さらに自分がどちらのイメージを求めているのかを知る。
イメージを実現するために、自分にふさわしい行動はどれかを考え選択しましょう。
2012年9月11日火曜日
自分を変える最初の関門
誰にとっても、自分を変えることは難しいことですが、それでもピンからキリまで人によって様々。自分を変えることにフォーカスする人もいれば、自分を変えずに状況を変えようとする人がいます。状況を変えることはもっともな行為と思えるかも知れませんが、実際にはできない相談です。
自分自身のことは自分にできますが、自分の外側にあることは自分にはできません。外側のことというのは、他者、状況などです。 変化を嫌う人は、他者、状況を変えようとします。また変わる必要が解っていても、Yes,But,If........「その通り」「しかし」「もし」を使って否定します。「なるほど、その通りです。でも○○○○○なので、それは出来ないですね。もし、状況が 変わればやりたいですが」というようにして認めないのです。
この構文を使っている限り、変化が起こることはあり得ません。 それにしてもなぜ変わりたくないのでしょうか?人に頼ったり、弱さを見せると嫌な顔をされる環境で育ったことに原因があるのかも知れません。
そのような人にとって最も都合がいいのは状況が変わってくれることです。状況をコントロールしようとします。しかし状況を変えることは無理な相談です。むしろ状況をコントロールしょうとするほど状態は悪くなります。 状況のコントロールに熱心でいると、失敗はいつも恥であり恐怖でしかなく、解決の扉というもうひとつの側面であることに気がつかなくなります。これではPDCAを使う機会を放棄しているのと同じです。
一方、自分に出来ることである、自分を変えることに集中していると、自然にPDCAを使わざるを得なくなります。行動した後に何が起こったかを見て、どこに間違いがあったか、どこを直せばいいのか、その結果を再度実行してみる。あきらめない限り失敗はなく、やがて成功にたどり着きます。こうした考え方も状況を変えることしか頭にないと「そんなにうまくいくはずがない」と否定的になります。
落ち着かない気分は、ふつう心地のよいものではありません。心が乱れるのは自分の内側か自分の外側の世界に何か問題があるからです。 こういう場合には対策が必要ですが、冒頭にお話したように、人間にはできることとできないことがあります。
いつも考えてばかりの習慣が身についていて行動しないから自分を変えることしかできないのが解らないのです。 いつも考えてばかりいるのは、弱さがバレルのが極端にイヤだからです。人間は相反する思考あるいは感情を持っていると、引き裂かれた状態と同じで身動きできなくなります。
「何かがおかしい」と感じるとき、実際に「何かがおかしい」ものです。その認識が最初の段階ですが、やがて本能的に次の段階に進み「問題など存在しない」という否認の段階に進んでしまうとそれまでです。鈍い人はそこで止まりますが、敏感な人は相反する認識が交互に現れてストレスになります。
自己否定感が強いと、不快感を手離したいので、第二段階の認識を意識しようとせず切り離します.、潜在意識に潜り込みストレスになります。自分を変えるためには、第二段階の認識をすることです。そしてPDCAを回すのです。いまこの瞬間に集中するようにします。
自分を変えるためのスタートの機会になるのは、安心感を保つことができる適切な対策を見つけることです。ほとんどの人はそれまで、怖くて自分を変えることはできないでしょう。つまり自分の実力を認識した上で、自分に合った効果的な方法を発見することが必要なのです。しかし簡単に発見できるものではありません。その発見は何度もPDCAを回してみないと分らないのです。自分に変化を起こす上で避けて通れない必要なスキルなのです。
家族的なチーム
人は社会的な動物です。つながりを求め、共同体に帰属したいと思いますが、それは関係を良くするために自分を抑圧することを意味します。自分をあからさまに表現すれば摩擦が生じるからです。つまりストレスが生じることを余儀なくされた生き物だということです。
この問題を解決してくれるのも共同体です。大きな共同体ではルールが複雑になりストレスも増えます。小さな共同体ではルールもシンプルですみます。家族はそのいい例です。自分をさらけ出しても、受け入れてもらえる共同体は安心できる場所です。家族の絆は血でつながっていることで無条件で受け入れることが暗黙のルールになっています。
血のつながりはないものの、会社での「課」というのも家族に通じる共同体と見ることもできます。家族のようにこれと言った会話がなくてもそこに仲間がいるだけでほっとできるチーム。目標があるからそういうわけにはいかないと思いがちですが、「私たち」という概念を浸透させれば変わってきます。個々の問題を取り扱うチームではなく、「私たち」の問題を取り扱うチームに変えれば、安心感が育まれます。安心感の根拠はひとりひとりのスキルアップですが、それにしても個々の問題ではなく、助け合う。助け合うのはできないから助けるのではなく、出来るようになるために助け合う。
つまり同僚がコーチなのです。自分の価値観に従い、チームとしての結果を出す。あるいはチームの価値観に従い、個人としての結果を出す。どちらかを選ぶことはできないのです。重要なのは結果を出すこと。結果を出せる「私たち」であるために個人はどのように関わればいいのか、お互いの計画を批判し合いながら、それ以上に重要なのは、お互いの計画を自分のものとして責任をもって関わる。そのためには同僚がコーチにもなる。自律したチーム。
人は自分に正直でありながらも、誰かの役に立つために生きていきたい動物。それが社会的な生き物ということです。ただ共同体に帰属するのではなく。。。 矛盾を解決してやれるチームが家族的なチームになれます。
登録:
投稿 (Atom)











